「ゼル・ローランドの思い出、その1」
私は運がよかった。物心がついた頃から釣りを愛してきたが、家族はそんな私をサポートしてくれた。私の初めてのトーナメントは13才の時のことだった。
私の13才の誕生日に父は私に2本のロッドと2つのリールを買ってくれた。
そして、父は私にB.A.S.S.の生涯メンバーシップ料として125ドルをレイ・スコットに払ってくれた。
私は、レイに会うたびに、父が払った金を返してくれと言っている。父は私にとってそのメンバーシップが如何に大切なものかを知っていた。私はB.A.S.S.のトーナメントに本当に出たいと思っていたのだ。
その当時のB.A.S.S.には年齢制限がなく、私のような13才の少年がB.A.S.S.に入ることができたのだ。
トーナメントのエントリーフィーは確かトーナメント毎に125ドルだったように思う。私の最初の目標はテーブルロック・レイクで1970年11月12日~14日に行われる全米トーナメント(オール・アメリカン)の最終戦に出場する事だった。
沢山の思い出があるが、その一つは雪が降った中で体が芯から凍えたことだが、それでも心は熱かったことをよく覚えている。
親友ができた。エメット・チレス、彼はテネシー州メンフィス郊外にある農場の経営者だった。彼はすでにB.A.S.S.のトーナメントに7回出場した経験があり、祖母の知人でもあり何より私が釣りを好きなことをよく知っていた。
私は彼に電話し、トーナメントに出たいと話した。我々は1~2日のプラクティスをやった後にテーブルロック・レイクの全米トーナメントに出場した。当時、バスボートは目新しくフィールドで見かけることはまれだった。
1970年当時ほとんどのトーナメンターはアルミボートで釣りをしていた。前日の木曜日に同船者が決まったが、そのパートナーは85馬力のマーキュリーをバスボートではなくアルミボートに積んでいた。彼は、グラスファイバーボートなんか目じゃない、最初のベンドに差しかかる前に我々は全てのボートを抜き去るだろうと言っていた。
トーナメントの3日間、私はあまり釣れなかったが一匹の記憶に残る魚を釣ることができた。振り返ってみると、その魚が私にとって最も重要な魚だったと言える。その日は寒く雪も降っていたが、私は水面付近をREBEL(レーベル)のジョインテッド・ミノーで釣っていた。トウィッチをかけ、スローにフォローティングさせていた。魚が下から上がってきてバイトする劇的な瞬間を見ることができた。私にとってのフレッシュウォーターフィッシングでは、自分が動かしているルアーにバスがバイトしてくる瞬間を見ることほど興奮することはないと思う。激しく身を踊り出してルアーにアタックしてくる姿は、水深20フィート(6メートル)のワームへのバイトに比べてもエキサイティングだ。
もし、20フィートゾーンに4ポンド(1800グラム)のバスがいても気にしない。
私はトップウォーターレーベル ジョインテッドミノー J10 940円
の2ポンダ―(900グラム~)の方が好きだ。
季節は11月中旬、私はREBEL(レーベル)のジョインテッド・ミノーをトウィッチングしながら、ルアーを水面下に潜らせてはポーズしてスローライジングさせていると、バスがそのREBEL(レーベル)ミノーをひったくって行った。
私はそのバスをフックアップしてランディングした。
ウエイトは3.5ポンダ―(1575グラム~)だった。我々は、10インチ(25.4センチ)のミニマムサイズを含めて10匹をウエイインした。その当時はまだバッグを使ってなかったので魚をストリンガー(魚の口を通す紐)に縛ってウエイインした。私のパートナーは7~8匹の魚を縛ったストリンガーを背中に担いで私と一緒に計測所へ向かった。結果は、13才の少年が釣った魚が並みいる大人を抑えてビッグフィッシュ賞を受賞した。取材に来ていたスプリングフィールドの新聞記者は、私の釣った3.5ポンダ―について大々的に記事にした。パートナーが釣った魚を全て合わせても、私の釣った一匹の方が重かったということは忘れられない記憶として残っている。私のトップウォーターゲームにかける思い入れはあの日が原点だ。私は高校を卒業した時、会計士になりたいとも、大工になりたいとも会社を始めようとかも考えず、ただプロのバスフィッシャーマンになることだけを思っていた。